「知」の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用(アラン・ソーカル, ジャン・ブリクモン, 岩波現代文庫)
この本は、著者が引き起こしたソーカル事件の後に出版した本であり、20世紀末に大きな波紋を呼んだこの事件の顛末についての弁明の書だ。時事的には少し古い本であるのかも知れないし、専門家によって散々議論し尽くしされたのだろうが、今読んでみてもまだ面白いかもしれない。
ソーカル事件とは、デタラメな自然科学の用語や数式を駆使して衒学的に着飾った、無内容で意味不明な論文を、当時著名だった「ソーシャル・テキスト」誌へ投稿したところ、あろうことか査読審査に通り、見事採用されてしまったというものだ。とはいえ、ソーカル曰く、出鱈目なのは、論文本体の文章のみであり、参考文献等は実在のものを使用しているそうだが。そもそも、テキトーに書かれたパロディー論文が査読審査に通り、論文誌に掲載されるなど、あってはならないことなのだが、それが見事にまかり通ってしまったために、こんなタイトルになっている。ありきたりな表現で、本書にも登場する言葉だが、彼は、「王様の裸」をいとも簡単に(そして露骨に分かりやすく)示してしまった。
ソーカルが批判しているのは、ポストモダニストと呼ばれる20世紀後半に登場した哲学/社会科学系の評論家達であり、本来の意味としては勿論、メタファーとしても不適切な、彼らのテクストに次々と登場する自然科学の用語や数式の濫用だ。
この事件は多くの禍根を残したが、傍観者の感想としては、「理系」が「文系」に喧嘩を売ったとか、人文科学(とりわけ、哲学やフランスの現代思想)がただペダンティックで無意味な学問であることが証明されたとか、ポストモダン系の哲学書が無駄に難解に感じるのは彼らが無意味な内容をしかめっ面で語っているからで、本当は何も語っていないのだ、といったところだろうか。
もしくは、ソーカルはフランスの現代思想やそれまでの流れについて全く理解していないという感想を抱いたり、本来、真面目に議論すべき場所へふざけた文章を送りつける不届き者の印象を彼に対してもつかも知れない。
本文中から引用すると、当時の彼に対する中傷は、
この連中は何が好きなんでしょうね? 部屋の壁にはどんな絵がかけてあるのやら? こいつらの奥さんっていうのはどんな風なんだろうね? この美しくも抽象的な命題ってやつを、いったいどうやって日常生活や性生活に活かしてるんだろうか?こんな感じで、部分的な賞賛としては、
言うまでもないそれ[ポストモダン理論]はすべて屑である。そんなことを言うために二九四ページの本がいるのか?といった類のレビューがある。また、ソーカルの行ったことをある種の営利行為だとする非難も多かったようだが、
たとえ、われわれの動機が彼らのいうとおりだったとして、それがわれわれの議論の正当性にどう影響するというのか?と突っぱねている。
本書では、そのような彼に対する手放しの賞賛や、闇雲な批判の両方についての反論がなされている。冒頭部分は、当時ソーカルに対して行われた様々な評価や批判についての反論であるが、この本の大部分は、著者が選んだ7人のポストモダニストらの似非自然科学的なテキストの批判だ。途中には、著者自身の哲学における見解や、この手の話にはつきものの「ゲーデルの不完全性定理」に関する話題なども登場する。最後に付録として、ソーカルが実際にソーシャル・テキスト誌へ送ったというパロディ論文がついてくる。ただ、最後のパロディ論文は、なんとなく、読む気が起きなかった(笑)。無意味だと言われている文章をわざわざ読むというのは、埋めるための穴を掘っているようで・・・・・・
特徴的なのは、「人文科学の衒学的な態度を批判する自然科学サイド」対「人文科学」のような、安直な二項対立を避けるためにかなり慎重に批判する箇所と批判しない部分を選んでいるところだ。その意味で、本書を読むと、Wikipediaのソーカル事件の項を読んだ時の印象とは全く違った感想を抱くかもしれない。
確かに著者は、ポストモダニストには批判的だが、哲学や人文科学全般について批判しているわけではなく、そればかりか、4章では、科学哲学における自身の考えを表明していたりする。そして、ポストモダニストを批判するのとは別の意味で、ポパーやファイヤアーベントらを批判している。哲学的な議論をしているのだ。
テキストの「自分が専門としていない」部分(自然科学的な部分以外)には立ち入らない、という態度を一貫しており、このことが、よりいっそう批判の鋭さもしくは痛烈さを際立たせているように思える。裏を返せば、内容を深く追求する必要すらないほど、物理学や数学の用語や式があからさまに間違っているということであり、それだけで十分批判できるということだからだ。
ポストモダニスト7人を批判している各章では、原文が示され、それに対する著者の解説(批判)があり、用語の注釈がつく。えげつないことに、本書では大量の物理/数学用語が登場する。
2章のラカンはトポロジーで始まる。開集合やコンパクト、位相空間、被覆、云々。3章のクリスティヴァも大体そんな感じ。位相空間論の基礎的な用語だが、よくわからない。各用語につき、数行の注釈があるものの、その程度の解説でわかるわけがなかった。恥ずかしいことに、私は位相空間論に関する本は何冊か買って読んでみたものの、未だにこの辺の基礎的な用語がよくわからないので、諦めている。せいぜい、理解できたのは、ラッセルのパラドックスとか、実数の濃度とかその辺だけだった。余談だが、濃度の説明は、ちくま学芸文庫の『数とは何かそして何であるべきか(リヒャルト・デテキント)』は分かりやすくて面白かったのを覚えている。
ついでながら、これほどに専門的な事柄を持ち出す先に「周知のように」という文句を付けるのは、知的テロの典型であることを指摘しておこう。(本書p.71)というフレーズは面白かった。
本書は、こんな感じで12章までつづく。
ここから、本題なのだが、ソーカル事件の顛末は、もしかすると、以下の記事で説明できるのかも知れない。理系/文系とは随分、ステレオタイプな分類法だが、彼らの考え方とすれ違いは、しかし、一方で本書の内容を上手く表現できているように思う。
【第25回】間違っているのは、文系よりも理系的態度かもしれない。 (cakes)
以上。
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