2016年1月7日木曜日

言語学の教室 哲学者と学ぶ認知言語学

言語学の教室 哲学者と学ぶ認知言語学 (西村義樹、野矢茂樹, 中公新書)


 それぞれ哲学と言語学を専門とする著者らが、対談形式で、認知言語学について語ったもの。

 統辞論(Syntax, 言語の文法的な要素)の構造を炙り出そうとする点から始めたチョムスキーの生成文法に対して、シニフィアン的な言葉が表す「意味」と構文(Syntax)が分かちがたく結びついているのだという点から考察する認知言語学。生成文法も意味論は扱うものの、構文の規則(統辞論)と意味の規則(意味論)が独立して個別に存在するという考え方だったため、認知言語学はこれに対する批判として始まった。

 ここで説明するよりWikipediaに飛んだ方が正確な説明が得られそうだが、著者の言葉を引用するなら、
言葉の問題を言語だけに狭く閉じ込めないで、事柄に対するわれわれの見方や態度と結びつけてかんがえていこうというのが、認知言語学の特徴なんですね。
(p.7)とか、
だから、その意味の違いは客観主義では扱えなくて、主体がものごとをどう捉えているか、つまりわれわれの認知のあり方を意味に反映させるような考え方をしなければいけない。言葉は客観的な事実を表すわけではない、その事実に対する見方・捉え方も表しているのだ。 この考え方が、まさに認知言語学のよって立つ認知主義の意味論というわけですね。
(p.54)
* 「客観主義」は「言葉の意味を世界や対象のあり方によって規定しようという立場」(p.45)で、「認知主義」は、それに対する認知言語学の立場の意味。
とかで、なんとなく、生成文法vs.認知言語学の関係が、特に、客観主義と認知主義という言葉の対比が、ウィトゲンシュタインの前期vs.後期の思想に、それぞれ似ているように思えるのは、著者が野矢氏だからなのだろうか。

 大学で(生成文法と密接な関係にある)形式言語に慣れ親しんだせいか、どちらかと言えば私は生成文法よりの考え方で、ずっと、別に統辞論と意味論を別々に扱ってもいいのではと思いながら、前半は割りと批判的に読んでいた。構文の構造を明らかにしてからでないと意味は扱えないのではないかとか、意味論と統語論を別々に考えなければ、話が複雑になりすぎて、意味を成さないのではないかとか、そんなところが常々気になっていた。

 特に、私の思い入れが強いのは、生成文法や形式言語の計算機科学上での応用、つまりプログラミング言語の実装や、自然言語処理における構文解析だったので、なおさら自然科学に近い(?)生成文法の方に分があるように思えた。もっとも、生成文法は、別にコンピュータ上で言語を扱うために考えられたものではなく、生成文法、認知言語学どちらも、「言語習得や言語使用を可能にしている知識のあり方を解明することを目標にしている」(p.20)という点では変わりないのだが。しかし、生成文法の持つ別の側面、すなわち、形式的に扱えるとか、規則性があるとか、「普遍的な構造がある」という点は魅力的であるし、何よりも生成文法の方が(オッカムの剃刀的な意味で)シンプルにも見える。

 そんな思いで、第二回「文法は意味と切り離せるか」という章を読むと、
数学っぽい処理が好きな人は生成文法じゃないと満足できないでしょ。
(p.62)とあって、やっぱりそんな感じなのかと思った。

 第二回までは、次々と繰り出される言語表現の例は面白かったものの、いまいち、認知言語学のメリットのようなものがつかめなく、悶々としていたところで、第三回「プロトタイプと百科事典的意味論」に突入し、そこで「プロトタイプ」という概念を知ると一気に面白くなる。

 物や生物をどのように分類するかという問題がある。例えば、雀や鷹、ペンギンを鳥という一つのくくりにするようなこと。この分類を言語活動とは独立に存在するものだと考えると、前述の「客観主義」的になる。つまり、言語活動とは関係なくすでに分類されているという考え方。認知言語学では、この分類問題に「プロトタイプ」という概念を使う。

 最初に典型例(すなわち、プロトタイプ)があり、そこから概念が広がっていくというのだ。もやもやっとした鳥の中心的イメージがあり、そこから、パッチワーク的に概念が継ぎ接ぎされる。我々が感じる「鳥」に似ているなという感覚と、「鳥」という概念は依存関係にあり、「鳥」という概念の中央に、雀のような典型的な「鳥」があり、ペンギンは、「鳥」ではあるが、「鳥」というイメージの外縁的な位置に「ペンギン」がいると考える。このイメージ上での「周辺」と、言葉の意味としての「周辺」(ギリギリ鳥の範囲に入る)が対応し、言葉とイメージが密接に関係していく。

 厳密な内包的定義と違い、境界線がないようにも見えるし、一見すると場当たり的に見えるが、境界線がないことが大切であるようだ。結果的に意味の概念として成立している上、言語的な創造性(拡張性)も担保される。

 実際、現実は、カモノハシの分類のように、うまく概念的に分類できないようなものも少なくないのかもしれない。別の例として色の問題もある。人間が目で見える範囲の色、つまり、可視光線は、「赤」とか「オレンジ」などの言葉によって区切られるものの、可視光線自体は連続的で明確な切れ目は存在しない。しかし、言葉の方は離散的で、どこかで「赤」と「オレンジ」を区切る必要がある。プロトタイプならば、典型的な「赤」や典型的な「オレンジ」があり、その範囲は明確な境界線なく周辺にまで広がるが、赤やオレンジの言葉の意味が揺らぐことはない。

 さらに、第六回は、メタファーについて扱うが、言語学の他の分野がメタファーを周辺的な(もしくは目下の課題でない)事柄として扱っているのに対し、認知言語学の視点においては、メタファーが言語の中心となる。
それまでは、言語学では、メタファーっていうのは単なるレトリック。それも、安く見られた意味でのレトリックで。レトリックをもっともちあげた言い方をしてもいいんですが、まあ一般にはレトリックっていうと、たんなる言葉の綾であって、メタファーを使って言えることは普通に字義通りに言えるんだけれでも、インパクトを与えるためとか気のきいた言い回しをするだけのもので、だから、言語学的には重要でないと考えられていたわけですね。
(p.190)とあり、 この考え方は一見何の問題はないように思える。これが、認知言語学では、
たんなる言葉遣いの問題ではなくて、われわれの概念体系がメタファーに基いているからこそ、言語表現にもメタファーが見られるんだという考え方
(p.191) と、発想が逆になる。

 言葉が表す意味を考えるとき、意味とは概念の一種であると考え、「概念とは、要するに、カテゴリー化の原理のことだ」(p.192)ということになる。そして、カテゴリー化はメタファーに基いている。というわけで、メタファーを知ることこそが、言語を考える上で最も重要になる。

 議論を勝負になぞらえて、「勝つ/負ける」(ARGUMENT IS WARというらしい)と言ったり、成績のことをコップの水かさが上下するように、「上がる/下がる」(MORE IS UP)と言ったりするのは、我々がそこに類似性を見出しているからである。認知言語学では、まさに、このメカニズムを解明することで、「言語習得や言語使用を可能にしている知識のあり方を解明することを目標にしている」のだろう。

2014年10月14日火曜日

「知」の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用

「知」の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用(アラン・ソーカル, ジャン・ブリクモン, 岩波現代文庫)


 この本は、著者が引き起こしたソーカル事件の後に出版した本であり、20世紀末に大きな波紋を呼んだこの事件の顛末についての弁明の書だ。時事的には少し古い本であるのかも知れないし、専門家によって散々議論し尽くしされたのだろうが、今読んでみてもまだ面白いかもしれない。

 ソーカル事件とは、デタラメな自然科学の用語や数式を駆使して衒学的に着飾った、無内容で意味不明な論文を、当時著名だった「ソーシャル・テキスト」誌へ投稿したところ、あろうことか査読審査に通り、見事採用されてしまったというものだ。とはいえ、ソーカル曰く、出鱈目なのは、論文本体の文章のみであり、参考文献等は実在のものを使用しているそうだが。そもそも、テキトーに書かれたパロディー論文が査読審査に通り、論文誌に掲載されるなど、あってはならないことなのだが、それが見事にまかり通ってしまったために、こんなタイトルになっている。ありきたりな表現で、本書にも登場する言葉だが、彼は、「王様の裸」をいとも簡単に(そして露骨に分かりやすく)示してしまった。
 ソーカルが批判しているのは、ポストモダニストと呼ばれる20世紀後半に登場した哲学/社会科学系の評論家達であり、本来の意味としては勿論、メタファーとしても不適切な、彼らのテクストに次々と登場する自然科学の用語や数式の濫用だ。

 この事件は多くの禍根を残したが、傍観者の感想としては、「理系」が「文系」に喧嘩を売ったとか、人文科学(とりわけ、哲学やフランスの現代思想)がただペダンティックで無意味な学問であることが証明されたとか、ポストモダン系の哲学書が無駄に難解に感じるのは彼らが無意味な内容をしかめっ面で語っているからで、本当は何も語っていないのだ、といったところだろうか。
 もしくは、ソーカルはフランスの現代思想やそれまでの流れについて全く理解していないという感想を抱いたり、本来、真面目に議論すべき場所へふざけた文章を送りつける不届き者の印象を彼に対してもつかも知れない。

 本文中から引用すると、当時の彼に対する中傷は、
この連中は何が好きなんでしょうね? 部屋の壁にはどんな絵がかけてあるのやら? こいつらの奥さんっていうのはどんな風なんだろうね? この美しくも抽象的な命題ってやつを、いったいどうやって日常生活や性生活に活かしてるんだろうか?
こんな感じで、部分的な賞賛としては、
言うまでもないそれ[ポストモダン理論]はすべて屑である。そんなことを言うために二九四ページの本がいるのか?
といった類のレビューがある。また、ソーカルの行ったことをある種の営利行為だとする非難も多かったようだが、
たとえ、われわれの動機が彼らのいうとおりだったとして、それがわれわれの議論の正当性にどう影響するというのか?
と突っぱねている。

 本書では、そのような彼に対する手放しの賞賛や、闇雲な批判の両方についての反論がなされている。冒頭部分は、当時ソーカルに対して行われた様々な評価や批判についての反論であるが、この本の大部分は、著者が選んだ7人のポストモダニストらの似非自然科学的なテキストの批判だ。途中には、著者自身の哲学における見解や、この手の話にはつきものの「ゲーデルの不完全性定理」に関する話題なども登場する。最後に付録として、ソーカルが実際にソーシャル・テキスト誌へ送ったというパロディ論文がついてくる。ただ、最後のパロディ論文は、なんとなく、読む気が起きなかった(笑)。無意味だと言われている文章をわざわざ読むというのは、埋めるための穴を掘っているようで・・・・・・

 特徴的なのは、「人文科学の衒学的な態度を批判する自然科学サイド」対「人文科学」のような、安直な二項対立を避けるためにかなり慎重に批判する箇所と批判しない部分を選んでいるところだ。その意味で、本書を読むと、Wikipediaのソーカル事件の項を読んだ時の印象とは全く違った感想を抱くかもしれない。
 確かに著者は、ポストモダニストには批判的だが、哲学や人文科学全般について批判しているわけではなく、そればかりか、4章では、科学哲学における自身の考えを表明していたりする。そして、ポストモダニストを批判するのとは別の意味で、ポパーやファイヤアーベントらを批判している。哲学的な議論をしているのだ。

 テキストの「自分が専門としていない」部分(自然科学的な部分以外)には立ち入らない、という態度を一貫しており、このことが、よりいっそう批判の鋭さもしくは痛烈さを際立たせているように思える。裏を返せば、内容を深く追求する必要すらないほど、物理学や数学の用語や式があからさまに間違っているということであり、それだけで十分批判できるということだからだ。

 ポストモダニスト7人を批判している各章では、原文が示され、それに対する著者の解説(批判)があり、用語の注釈がつく。えげつないことに、本書では大量の物理/数学用語が登場する。
 2章のラカンはトポロジーで始まる。開集合やコンパクト、位相空間、被覆、云々。3章のクリスティヴァも大体そんな感じ。位相空間論の基礎的な用語だが、よくわからない。各用語につき、数行の注釈があるものの、その程度の解説でわかるわけがなかった。恥ずかしいことに、私は位相空間論に関する本は何冊か買って読んでみたものの、未だにこの辺の基礎的な用語がよくわからないので、諦めている。せいぜい、理解できたのは、ラッセルのパラドックスとか、実数の濃度とかその辺だけだった。余談だが、濃度の説明は、ちくま学芸文庫の『数とは何かそして何であるべきか(リヒャルト・デテキント)』は分かりやすくて面白かったのを覚えている。
ついでながら、これほどに専門的な事柄を持ち出す先に「周知のように」という文句を付けるのは、知的テロの典型であることを指摘しておこう。
(本書p.71)というフレーズは面白かった。

 本書は、こんな感じで12章までつづく。
 ここから、本題なのだが、ソーカル事件の顛末は、もしかすると、以下の記事で説明できるのかも知れない。理系/文系とは随分、ステレオタイプな分類法だが、彼らの考え方とすれ違いは、しかし、一方で本書の内容を上手く表現できているように思う。

【第25回】間違っているのは、文系よりも理系的態度かもしれない。 (cakes)

以上。

2014年9月21日日曜日

悪の出世学 ヒトラー、スターリン、毛沢東

悪の出世学 ヒトラー、スターリン、毛沢東 (中川 右介, 幻冬舎新書)


 本書は, そのタイトルの通り, 20世紀において最も悪名高い3人が, どのようにしてその地位に上り詰めたのかについて描く. 彼らの出生や家庭環境から始まり, 各々の組織に入団し, その中での活動, そして, 独裁者の地位まで駆け上がった過程が中心で, その後に彼らが引き起こす粛清や虐殺については, 有名なので特に述べるほどではないのか, 軽くまとめられている程度だ.
 出世がテーマになっていることもあって, 比喩や各章のまとめに, ハウツー本のような雰囲気がある. 時々, 卑近な話題がでてくる.

 内容と読後感は以下のような感じ.

 スターリンと毛沢東は, 似たような組織(共産党)の性質に由来するのか, 中間管理職のようなポジションで, かなり辛酸を舐めさせられてきたような人だった. 実務に長けているといった印象で, 彼らが特別優れていたというよりは, 周囲の人間が政治/軍事的に才覚のないインテリ達で, 彼らから押し付けられた仕事を地道にこなしていたところ, 結果的に生き残ったのがスターリンと毛沢東だったというストーリーだ.
 スターリンは民族独立運動に興味を持って活動を始めているし, 毛沢東も元は大学の聴講生で, 講義に参加したりしていた. しかし, 彼らは, その共産党内の活動の中で, 自身の確固たる思想のようなものを持ち, 主張しているわけではない. この辺が彼らが周囲との衝突から身を守り, 結果的に彼ら自身の成功をも守ったのではないかと本書では分析している.

 党内では, 持論と相手の主張を戦わせる論争が, 度々起こる. 彼らが属した共産党員には, 党のコンセプトがマルクス主義という一種の思想に由来するためか, 「理論家」のような人が多い. 理論とはいっても, 思弁を戦わせるような人たちだったようで, 対人論法的な部分があったためか, 自分に逆らうやつはすべて敵を地で行く人たちだった. しかし, スターリンや毛沢東はこれにあまり積極的に関与している節がない.

 ソ連の共産党とは, 一度意見を相違えた人とは絶対に交わらない心の狭い人の集団だったようで, これが党内の分裂を生みメンシェヴィキとか, ボリシェヴィキという派閥に分かれていったり, 党内で左遷されたりするようだ. ボリシェヴィキのレーニン派につき, 論争によって直接争わなかったことが, スターリンのポジションを維持し, 他の党員は党内抗争において, 次々とレーニンから距離を置かざるをえなくなった. 結果, スターリンは, 時の権力者であるレーニンの一番の側近になってしまった.
 分裂の激しい党の性格を思うと, 最終的に党は空中分解してしまいそうで, 共産党政権の樹立などありえないように思える. しかし, ロシアでは帝政の崩壊が, 中国では大戦後のソ連の支援のという, 時代の流れに調度いいタイミングで党自体も波乗りできた感があったのかとも考えた. しかし, 内紛に勝つという共産主義思想とは全く関係のない仕事こそ, スターリンや毛沢東の得意分野だったのかもしれず, そう考えると, 彼らが政権の座についたのは必然だったのかもしれない.

 毛沢東はゲリラ戦が得意な指揮官であり, この作戦の業績が, 他の党員に対して, 彼の正統性を示し, 彼を党首にまで押し上げた. ソ連の共産党と違い, 中国の共産党は, ソ連共産党の中国支部といった形で, ソ連側の「指導」の下で, 党の運営を行なっていた. そのため, ソ連から党員が幹部として送り込まれ, 彼らの指揮の下, 政権を転覆させようと彼らによる軍事作戦が展開されるも, ことごとく失敗していく. ソ連からやってくる幹部は, かなり頭でっかちな人物ばかりで, ハウツー本的に言えば, 「現場を知らない」人々だったようだ. そして, この問題が鬱積していくと, 「毛沢東の指揮はいつも正しい」という神話(実話?)が出来上がっていく.
 毛沢東の軍事における才能もさることながら, あからさまに周囲がダメな指導者ばかりだと, 結果的に, 彼が輝いて見える. そんな相対効果もあったのかもしれない.

 一方で, ヒトラーは, 自身の演説の才能と独特の交渉スタイル(?)だけでのし上がってきた不思議な人物だ. 演説(自身の才能)だけで, 一国の首相にまで上り詰めるというのはある意味では夢物語のように思え, 彼の人生のある一部分だけを切り取れば, 自分の才能によって立身出世するというドイツだけどアメリカンドリームの様相がある.
 本書では, 時々, 聴衆は演説に酔いしれていたという記述が度々でてくる. 彼の演説の巧みさは, 有名だが, 当時のヒトラーの演説を捉えた映像を見ても, どこがどう良かったのか, 私にはわからない. ドイツ人(ドイツ語話者)なら理解できるのだろうか.
 ヒトラーはもともと, 凡庸な家庭に生まれ, シンプルな家庭環境である一方, 学業も落第と中退を繰り返し, 自身が志望した画家の学校の受験にも失敗している. 落ちこぼれではあるが, 特別不幸な生活だったわけでもない. その後は, 画家として, (そこそこ売れたらしい)絵の売り上げと恩給や遺産で生活していた. しかし, 時代が一次世界大戦に突入すると, 軍に入隊し, 勲章を受章するほど活躍したが, 上司の判断で, 伍長どまりで管理職にはなれなかった. 管理職向きではなかったようだ. 管理職に向いていないのに独裁者に向いているというのがなんとも.

 終戦後も, 細々と軍の仕事を続けており, スパイとして活動していたところ, ドイツ労働党のドレスクスラーと出会う. 「この偶然の出会いが彼の運命を変える」のである. ドイツ労働党へ入党すると, その演説の才能で頭角を表す. スターリンや毛沢東が長年甘んじてきた2番手以下のポジションを引き受けることを嫌い, 最初は党の演説者として有名になり, その次のポジションはいきなり党首(第一議長)になる. さらに, 大臣になるというプロセスを飛ばしていきなり首相まで踊り出る. 例えば, 副首相の話を持ちかけられても全部断っているのだ. それでも, 首相になってしまうのだから嘘みたいな話だ. ただし, 当時の大統領ヒンデンブルグを脱税の件で脅し, それにより首相の承認を得たとも伝えられている.
 ヒトラーの交渉術が巧みであるが, さらに, ヒトラー自身, 交渉のための交渉材料を持っていた部分が彼の出世をスムーズに進めたようだ. 無名だった頃の交渉材料は, 彼の飛び抜けたスピーチの才能であり, 首相へたどり着くまでの交渉材料は, 全議席の1/3を占めていたナチ党の議席数だ.

 演説の才能だけで票を獲得する行為自体, 政治家が実践する方法論としては全うな手法だったとしても, 政治家が公約している政策の正しさや正当性, 妥当性からその政治家を支持しているとはいいがたく, 大丈夫か民主主義, と思ってしまう. この件は民主主義が大々的に失敗した例だけど.

 全体的に濃い内容だが, 完結にまとまっている. わかりやすく, 飽きのこない語り口で, 久しぶりに面白い本を読んだ気がした. ピカレスクロマンとしても面白いし, 歴史書として普通に読んでもいいし, もしかするとハウツー本としても読めるのかもしれない.

 本書の話題とは, 全く関係ない話だが, この本では, 全体が7章にわかれている.
 しかしこれは, スターリンの誕生から独裁者へで1部, ヒトラーの誕生から独裁者へで2部, 毛沢東の誕生から独裁者へで3部としても良かったはずだ.
 一人の人間の人生を最初から最後までストレートに記述した方がわかりやすく, 混乱がないという問題と, 3人の人生をそれぞれのフェーズで比較したほうが, 彼らの行動の違いや共通点がわかりやすく示せて, 面白いという問題がある. 一方で, 本のテキストは直線的で, 前から順番に書いていくことしかできない. 本書では, 後者を採用している. どちらを採用するかは, 内容に依るとはいえ, 難しい問題だと思う. この現象がなんとなく, 横断的関心事に似ていて面白かった.